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2022年12月26日
【アーカイブ公開①】シンポジウム「工芸再考-アート、ポリティックス、ジェンダーの視点から」
「GO FOR KOGEI 2022」開催記念シンポジウム
【第一部 基調講演】工芸再考 −アート、ポリティクス、ジェンダーの視点から−
「GO FOR KOGEI 2022」の開催を記念し、プレイベントとして2022年7月30日にシンポジウムを開催いたしました。テーマは「工芸再考 −アート、ポリティクス、ジェンダーの視点から−」。当日の内容を第一部と第二部に分けてレポートいたします。今回は第一部、菊池裕子氏(金沢美術工芸大学教授)による基調講演です。
アートとの接近、クラフトを通じたアクティビズム運動、そして構造的なジェンダーの問題など、「工芸」を巡る議論が世界で活発になっている今日。工芸が内包する課題・可能性を再考するために、現代の工芸批評やそのバックグラウンドとなるグローバルシーンをお話いただきました。
「通常 “工芸”というと技術論で語ったり、工芸ジャンルの中で語ることが多いのですが、今回は視点を変えて、社会学的というか『社会との関係の中で工芸を見ていこう』ということがポイントになります」と、冒頭挨拶で語るモデレーターの秋元雄史さん。
「その意味でも、グローバルな視点から工芸を見ておられる菊池先生が金沢にいらっしゃるということは、大変素晴らしいことです」。
モデレーターの秋元雄史さん(東京藝術大学名誉教授、練馬区立美術館館長)。「GO FOR KOGEI 2022」では総合監修・特別展キュレーターを務める。
菊池裕子さんはポストコロニアル(※)の視点から、工芸を批評的に研究してきた第一人者のお一人です。その活動拠点を長年海外においてきた菊池さんですが、3年半前に金沢に移住。「“工芸”を巡り、何かが起こりつつある金沢に惹きつけられて」と、その理由を語ります。現在は金沢美術工芸大学で教鞭をとる菊池さん。普段は耳にできない貴重なレクチャーが聴講できると、会場は満員御礼。「工芸」を巡る動きへの関心の高まりを感じさせます。それでは、ここからは菊池さんの語りで講演内容をお伝えします。
※ポストコロニアル…植民地主義以降の秩序。
<PROFILE> 菊池裕子 ロンドン芸術大学(UAL)で25年間教鞭をとり、その間にトランスナショナルアート研究所(TrAIN)の設立メンバーとしてポストコロニアルの視野から「工芸」を批評的に研究。3年半前に金沢に移住し、現在は金沢美術工芸大学にて教授を務める。
当日は満員御礼で、インスタライブからの遠隔の視聴者も。
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(以下、講演より)
「寡黙に美を愛でよ」、批評なき工芸の世界
工芸は何かと批評がない世界です。近代以降に定められた国境や地域という「境界」において閉じられていて、特に日本では「寡黙に美を愛でなさい」という世界があると思います。
かたや対概念である「美術/アート」の領域では、「世界で何が起きているか」ということが直接的に関係してきています。例えば「越境」という概念、それから様々な事象との「関係性」ということが21世紀の関心として強烈に現れてきています。そして人間と物とが高速で動く現代において、「モビリティ」「個人のアイデンティティ」「身体」「土地の記憶」、そして「権力の中心」ということが問題化されてきています。越境して「歴史」と定められてきたものを相対化してみると、誰が誰のために何を選んで歴史としてきたのかという疑問がわきます。そこにポリティクスとか、ジェンダーという視点が生まれ、アートが現在の自分に問いかけてくる、という批評の仕組みが生まれます。
その観点からすれば、日本で言う「工芸」はかなり閉じられていて「現代性」とか「緊急性」というものがアートの世界のように感じられません。そこで今回「工芸再考」というテーマでそれらについて考えてみようと思います。
グローバルな現代工芸批評の流れと発展を紹介し、そして副題となっている「アート/ポリティクス/ジェンダー」という視点が今どうなってきているのか。その視点をみなさんとシェアしながら、日本工芸の世界に揺さぶりをかけ、現在進行形である批評をどう考え・実践していけるかという提案にも進んでいけたらと思います。
「What is craft?」グローバルな「工芸」の問いと批評
2019年、ニューヨークのアート&デザイン美術館(MAD)ではバーク工芸賞展が行われました。大賞を受賞したアメリカ先住民族の作家チヌパ・ハンスカ・ルガーの作品が人種、ジェンダー、差別の問題を横断して
問うビーズの工芸作品が展示されたており、展覧会の入り口には「What is craft?」と大きく書かれていました。「工芸とは何か」、それはまさに現代の問いです。そこには「工芸は多義、特別なメディア、技巧、動詞として人間が何かを創造する行為、または囲い込まれた領域でもあるかもしれない」とあり、続けて「工芸とは何かわからない」と書かれていました。そしてここが重要です。「そのような問いをするより、素材や工程が意味するもの、作家にとりなぜそんなに必要で、なぜそんなに新鮮で、なぜそんなに満足できるものか、ということを問いかけた方が意味があるのではないか」と。ですから私たちもやはりここから始めてみたいと思います。
この「工芸とは何か」という問いは急に出てきたものではなく、1990年代から広範囲にグローバルに起こっている議論です。特にこの20年間というのは英米の英語圏が現代工芸論をリードしています。ここでは大量に出版された研究物の中からほんの一部だけご紹介しますけれども、ピーター・ドーマー、ポール・グリーンハルシュ、この二人は工芸の問いを最初に提示した人たちとして重要です。そして近年の急速な工芸の理論化は、グレン・アダムソンのパワフルな仕事に負うところが大きいです。彼らの功績により、この領域は横断的に拡大し魅力的な議論の重厚さをもつようになってきています。
こちら(上記参照)で紹介している書籍はそれぞれ異なる視点で議論がなされています。例えば「工芸の知識とは何なのか」「職人気質というものは何か重要な定義になるのではないか」。それから「手を使って作る」ということ。これは古代から人間がやってきていることで、問題を見つけ・道具を使って解決するという、人間の基本的な「作る」という行為についての哲学的な議論などがあります。
それから「工芸文化産業」ということも非常に重要です。現代の生産・消費形態など経済的な議論を絡ませて考えていこうという議論もあるかと思うと、「工芸は時代が変わっても不変で、単独の世界、そしてその価値観に基づく閉じた世界にいれば良いのだ」という極論の人たちもいます。
それから「美術/工芸/デザイン」という領域と仕分け。それを規定する大学や美術館や展覧会という制度の問題批評ですね。それをするには工芸的な要素、たとえば「素材」とか「技術」「工程」「装飾」などについて新たな視点から再考すべきだという議論もあります。
それから「ジェンダー」の視点。「女性性/男性性」という二項対立の構築と工芸の概念が非常に関連し合っています。「手芸」という分野は一体何なんだろうか、という領域への疑問。そういうものから広がって、「二項対立を超えて」というところまで議論が発展してきています。
そして「クラフティビズム」。聞き慣れない言葉かもしれませんが、現代の社会政治へ「工芸を通して実践的にアクションを起こしていく」ということです。それを受けて「工芸はポリティカルなものである」という立場で批評を展開する方向も広がっています。最後にあげてある「Postcolonial recentring」というのは私の提示した批評概念で、日本と英語圏での現代の工芸批評というものの重なり合いとズレ、そして“工芸王国”と呼ばれる日本の抱える課題について論じた論考です。
ここ20年間の議論を駆け足で説明してしまったのですが、このように工芸というものは今とても旬のトピックです。美術史学的、哲学的、社会学的、経済学的、文化人類学的、そして政治的なアクションとして広範に広がる議論になっています。ポストコロニアル理論やジェンダー論がその中で戦わされている、プラットフォームになっていることもわかります。
近代工芸の歴史学者であるポール・グリーンハルシュが述べるように、この背景には西洋の近代において、視覚文化の頂点に立った「美術」というものが、現代に向かうにつれその純粋性を、理論的にも造形的にも正当化できなくなって崩壊しているという背景があります。一つの定義を持てなくなってきているということで近代を自身で見直すポストモダンの議論が行われてきたところに、近代が構築した領域を壊す“バウンダリー・ブレーカー”としての可能性を持つ工芸の問題が理論化され、そして「工芸というものが一体何か」ということが意識されるようになり、議論が出てきたということになります。
日本における工芸批評
日本でも2000年以降に工芸批評にまつわる書籍が出版されています。ここではいくつかキーになるものを載せています。
北澤憲昭氏が日本の近代視覚文化において19世紀末に美術という西洋の概念が翻訳されて、それを中心にして“工芸”または“産業工芸”というものが構築されたことで問題が出てきている、と説いています。工芸は美術に入らず、また機械工業になっていく産業工芸にも属さず、そして両者の領域を横断する要素が雑多に入り混じり曖昧で複合的な性格があり、その中間性によって定義されている、というのが現在に至っている状況です。モダニズムの脱構築とともに、美術の純粋性を理論的にも造形的にも一つの中心を持って正当化できなくなり、解体されていく。すると、その周辺にあった“非美術”という領域で健全に生きていた工芸が増殖してくるわけですね。そして以前には中心にあった美術を侵食していく。それはまさにアヴァンギャルドがやってきたことだ、と北澤さんはおっしゃっています。美術を壊しては再編して、常に前進していくというモダニズムのパラダイムがあり、そこには常にアヴァンギャルドが必要だったわけです。今工芸に起こっていることは、そのモダニズムが崩壊していく「モダニズムなき後のアヴァンギャルド」みたいなもの。これを北澤さんは「アヴァンギャルドなき後のアバンギャルド、それが工芸である」というおもしろい言い方をされています。そしてモダニズムに代わる造形思考や評価の可能性を工芸的なものに見るようになります。
森仁史氏は日本の視覚・物質文化の母体は工芸であると再認識する必要があり、それをすることで近代のシステムを越えることができる、と論じています。
稲賀繁美氏は世界の美術史・文化史的な問題と関連させて工芸問題を非常に大きな視点で説いています。西洋中心の視覚文化制度下で、非西洋文化の視覚文化を見たときに、似たような価値や形が認められなければ全く評価されません。西洋中心の視覚文化制度にそれを無理に当てはめようとすれば、その上下価値を規定するヒエラルキーが適用されてしまうわけです。また逆にもし似たようなものがあれば今度は「西洋のコピーだ」と言われてしまいます。どこからどう行っても不均衡な権力関係に基づいた中で、世界の中での「日本の工芸」というものが難題になっていると論じています。
金子賢治氏は「工芸的造形」という造語を作りました。現代的で工芸的な作家活動を、別な言い方で評価してみようという言葉です。
これらの批評は日本固有の問題ではなく、ポストモダン、ポストコロニアルの大きな主張の中に置かれたグローバルな問題で、世界と呼応して起こっている問題であることを確認しておきたいと思います。だからこそ、工芸は閉じた世界であってはならない。批評の対話を進めていくことが、同じ問題意識を交換することになると思っています。
工芸のポリティクス、その7つの視点
日本と英語圏で重なり合う論考もたくさん出てきています。両者にまたがって現れる7つの工芸の視点というものを私なりにまとめてみました。そこから見えてくるポリティクスを考えてみたいと思います。
Material(素材):素材の理路が働きかけ、肯定・表現を規定する。
工芸にとって素材の規定はとても重要です。20世紀の前半にバーナード・リーチは「素材に忠実であれ」という名言を残しています。「真っ正直な人間が素材に身を任せれば任せるほど、倫理的にも審美的にも良い壺が生まれる」として壺と人間性を関連づけて、工芸の素材論を説きました。現代でもミシェル・ハーディーやウォレン・シーリングのような英米の工芸作家は素材について雄弁に語ります。素材は作家を自然に繋げ、作り手の身体感覚を研ぎ澄まし、工程を通してそれを判断したり発展させたり変えていく。素材は「コンセプトを実現する」というものではなく「これからできてくる未知のものを視覚化して変えていくものである」といい、関島寿子や橋本真之などの日本の作家が語る素材による理路と呼応しています。
クレメント・グリーンバーグの理論の影響下にあるモダニズムの評価軸においては素材というものは価値が低くなります。美術の至上主義においては、素材ということが、工程同様あまり意味のないものになる。特にモダニズムの評価軸が影のように生きているため、欧米の工芸作家は非常に苦しんでいて、様々に言語化をしながら説得を試みています。
Function(用):用は作家性否定ゆえに戦って正当化 vs 用は選択
工芸において一番よく耳にする、「用」という概念が工芸の性質と構造を規定する、という議論があります。しかし19世紀末より「装飾芸術」という区分ができて、装飾というものが語られていく過程で、「用がある」というものは美術とは違う非常に遠いものとされ、視覚文化のヒエラルキーの中では価値の低いものとなってきました。これに対し、欧米の現代工芸作家は抵抗します。用をなくすとそれは単に象徴的なものになり、身体で認識する質と、コンセプトの両方が複雑に合体した工芸の全体的で有機的なつながりを切断してしまう。それから用の「ある/なし」といった区別は前近代にはなく、それが一体になっていた。けれども「用」の必要性がなくなった21世紀になると、形骸化してその形だけが残ってしまう。過去の記憶が造形の中に残っていて、それが創造の衝動になっているのだというおもしろい言い方を、バスケタリーのエド・ロスバックはしています。
日本では「用」ということはあまり問題にならず、定義も説明もなく「用」と言っているが、その背後にあるのは「茶碗の美学」というものがベースにあって、哲学的な高度な理解と、用途が繋がった形がかなり広く共有されているということが、「用」という議論が海外と噛み合わない理由になっているのかなと思います。作家自身も器も作るし、器でないものも作っている。曖昧な境界を行き来する作家も多いので、そういう違いも生み出しているのかもしれません。
Skill, Hand(わざ、手作り)
人間の総合的な暗黙知 vs 国―男性―人種に規定された「技」
デイビッド・パイという木工作家が1968年に出した『The Nature and Art of Workmanship 』という本があります。このあたりから「技術」とか「匠」というアイディアが、欧米の議論の底流になり、グレン・アダムスに至るまで色々な議論に発展しています。技術というのは作り手の経験ある判断により、何が正しく、何が正しくないか、ということを決めていく総合的な知識でマイケル・ポランニーの「tacit knowledge(暗黙知)」という概念を使って、その総合性が説明されることもあります。その背景にあるのも、英米のモダニズム文化には技術を軽視し、芸術の文化からは下位に従属するものという考えがあり、それに挑戦しなければならないからです。日本では「技」という言葉があり、それは伝統的に「価値評価の高いもの」という文化土壌がありますが、問題は別のところにあります。例えば人間国宝制度の規定の根幹にあるために国に擁護されるというナショナリスティックな価値が生まれて、男性中心主義を容認する、別の社会的差別問題があることに気がつきます。
Avant-garde vs craftsmanship (アヴァンギャルドvs 匠、職人気質)
工芸もアヴァンギャルド vs 工芸はアヴァンギャルドとは無関係
モダニズムの美術が崩壊しつつも、現代アートは自立し、自己批評にもとづき自己生成していくと考えられそこでのアヴァンギャルドの機能は残存しています。リチャード・セネットは工芸作家の作る工程では「問題発見」と「問題解決」の繰り返しが行われていて、それは個人作家の活動としての自己批評、アヴァンギャルドに近いものだろうといいます。北澤憲昭さんが「工芸とはアヴァンギャルドなき後のアヴァンギャルド」という言い方をしたように、工芸の存続自体にアヴァンギャルド性を見ています。また反対に工芸は「素材」や「技術」に規定され、アヴァンギャルドとは関係ない、という議論も出てきます。アバンギャルドの対極に位置するのが「匠」とか「職人気質」になってくるので、この辺で議論が分かれます。
Haptic(ハプティック):身体と工芸の重要な因果関係
英国の陶芸家であるジュリアン・ステアーが1990年に「ハプティック」という視点を工芸の中に提唱しています。木工家のジャン・ペローも視覚的評価より、身体的でホリスティックなハプティックという評価軸を入れるべきだと言っています。関島寿子さんも「鳥の巣づくり」を比喩にバスケタリーをつくことを考えています。またリチャード・セネットはヴァイオリンの「鈴木メソッド」により子供が身体感覚を訓練する過程で手と頭での知覚が合体することを例に工芸についても同じことが言えると論じています。この点においては英米でも日本でも同じところに議論が収束しています。
Gender, class, race, professionalism(ジェンダー、階級、人種、プロ)
英米では工芸は女性や非白人の文化、下層階級、アマチュアという差別される領域と関連しています。工芸を議論するということはこれらの問題に挑戦する、という現代社会の政治問題になってくるのです。日本でもその問題は同様に、歴然としてあります。伝統工芸の分野に、女性は染織や人形以外にほとんど現れません。けれど「手芸」とか趣味の領域には女性ばかりが出現します。また女性の現代工芸作家は多くいるけれど、独立した活動領域を切り開き、どの協会や展覧会にも固定されないところにいるように思います。ですから公的な助成を受けにくく、自力で行なっているという現状があります。歴史的に見ると19世紀のジャポニズム以来、日本は西欧に対して“工芸の国”として売ってきたため、大きな枠組みの中で英米の根底に流れる工芸への差別構造の中にすっぽり入ってしまっています。そしてその下部構造の中での、二重の差別構造があることが政治的には見られます。
Decoration(装飾):ヒエラルキーを作る壊せない壁vs日本の独自性の発露
「装飾」は英米では非常に厄介な概念です。これが説得力ある工芸の再評価に繋げられる可能性を持ちながらも、非常に大きな妨げとなっている要因でもあります。1970年代にはそれを逆手に取った「Pattern and Decorative Movement」というのが現代アートの運動としてありました。この運動が目的としたのは西欧白人文化主義ではないもの、それから性差別・人種差別・階級差別のない、視覚文化のヒエラルキーをなくしてフラットにするということを目的にしたものでしたが、結局評価軸は変えられませんでした。
一方日本では辻惟雄さんが提唱した「かざり」という論理が好意的に受け止められて、大英博物館でもそれを推す形で「かざり展」が行われました。それから鶴岡真弓さんが、「日本の住居空間におけるハプティックな要素と“かざり”との関係」ということで襖や障子といったとても日本的なインテリアと関係する工芸とそれに付いている「装飾」という概念がすごく重要だと議論しています。ただしその「装飾」という点は日本に過剰に自信を持たせるところがあります。ここから転じて「日本はもともとポストモダンであった」という短絡的な極論に至っている人もいるので、ここに関しては警戒が必要です。
日本での工芸的要素がテーマになった展覧会
日本では以上にあげたような問題意識がテーマになった展覧会は少ないですが、ここに私が注目したものをご紹介します。
「素材の領分」東京国立近代美術館・工芸館
美術の世界で、「もの派」が1970年代に行なった、素材からそこに付随する既成の概念を剥ぎ取るという作業に触発されて、素材自体に内在するもの・素材独自の領分があるという見方が出てきたものを見せようという展覧会でした。樋田豊次郎氏によるキュレーションでした。
「装飾の力」東京国立近代美術館・工芸館
古からあり、しかしあまり評価されてこなかった「装飾」「飾る」を考え直すことで、工芸という造形について考えるという展覧会でした。伝統的な文様で飾りキメラ的な面白さを出す、憧れや願いを込める、空間との関連を作る、立体を装飾して立体を膨張させる等々の装飾の魅力を見せていました。
「超絶技巧展」三井記念美術館
清水三年坂美術館館長の村田理如氏が蒐集した、明治の美術工芸作品に見られる圧倒的な技巧表現がある作品を見せていました。それを美術史家の山下裕二氏が「超絶技巧」と名付けて流行にまでした展覧会です。「技巧」を誇張することで工芸を見直してみようという試みでした。
「工芸未来派」21世紀美術館・MAD
そしてここにいらっしゃる秋本雄史さんのキュレーションで行われた「工芸未来派」。21世紀美術館で行われた後ニューヨークのMADにも巡回し、海外との対話が進められたとても稀な日本の工芸の展覧会でした。ここには少なくとも三つのリサーチ・クエスチョンがあったと思っています。
・工芸はなぜ、現代美術と同様にグローバルな視野で異なった出自を持つ文化と交換可能な共通の課題をもてないのか。
・工芸を紋切り型の「日本」、ナショナリズム、ローカリズムから切り離せないのか。
・「工芸的なもの」の範疇がどこまで、どのように広げられるか、フラットに見るとどうなるか。
工芸未来派の語る「未来」というのは近代への懐疑。ポストモダン、ポストコロニアルの視点から見ています。そして終末へ向かって崩壊していく。それを見ながらも抵抗するような「未来」ということで、それは近代美術の中でも特に負の要素とされていた「技術・装飾」、それから「職人気質」「体感触覚性」「原初的なアニミズム的なもの」を再評価することで描ける未来だと思います。
「美術史」への問いから始まる、工芸の政治化
このように見ていくと、工芸の政治性というのは現代のグローバル視覚文化論におけるパラダイム変化、その交差点に位置していると捉えることができます。ポストモダン/ポストコロニアルの「美術史」の歴史と評価の修正と共に歩んできました。近代の美術によりできた制度、領域、評価を問い直し、崩し、そして異なるパラダイムを作ろうという、文化における政治ポリティクスです。
近年、工芸における政治化が進んだのは特にジェンダーとの関係においてでした。これは「美術史への問い」というところから始まりました。
「なぜ女性の大芸術家は現れないのか?」という論文をリンダ・ノックリンが1971年に書いて問いかけました。既存の美術史のカテゴリーと評価軸を使って女性の芸術家を探そうとしても出てこないので、“女のミケランジェロ”を探すことではなく、フェミニストの批評の視点を持って美術史学に介入していくことを提案しています。なぜなら200年以上かけて男性中心の強固な制度と知の権力を持って書かれ、現在までほぼ無意識の内に使われてきたもののオルタナティヴをつくるというのはとても難しいからです。
男と女は自然に違うということを決定的な前提にし、女に生まれたら社会的に育成される芸術家になれない、というゲームのルール自体がおかしいのでそれを疑問視しなくてはいけない。男性権力中心の知の構造自体が問題で、パラダイム変革が必要であり、そのために問題を共有すること、そして新しい評価軸をつくること、女性アーティストの制作の場と作品を記録をすることを促しました。
北米の学者に呼応する形でイギリスでもフェミニスト美術史研究家のグリゼルダ・ポロックやロジカ・パーカーらがグループを作って同様の疑問を投げかけています。特に「美術史」という権威ある男性中心に構築された研究領域に置いて、女性性が徐々に作られていったことを問題にしました。女性の描く絵は男性の描く絵と分けられ、“フェミニン”であると決めつけられ、プロのアートには仕分けされません。日本語でも“男流”とは言わないのに“女流”という表現はある。そして美術の世界では男性画家の視点で“見られるもの”になるという「表象」研究の視点が彼女たちの研究により開かれました。
一方、「女性性」と「工芸」というものが結合してヒエラルキーの下位におかれるようになりました。工芸の政治的問題が意識されるようになるのはここからです。美術評論家のルーシー・リパードは「ホビーアート」というものに注目します。それはファインアートでもなく、クラフトでもなく、クオリティがなく、オリジナリティがなく、派生的だから、という風に評価され区別されます。「High/Low」の区別で、女性の領域と区別され、ジェンダー化され、クラフトの中でも「博物館に蒐集されるもの」と「家で行われるもの」とに区別されていくわけです。ハイアート/ハイクラフト/デザイン、そのどれにも属さない「手芸」。その活動や本の出版が女性によって多くなされていて、アートとは呼ばれないけれど夢中になっている人は多い、ということに注目します。
ファインアートの世界では重要なコンセプトになってきた「ブリコラージュ」。何もないところから何かを作るというような、すごくアヴァンギャルドなアイデアという風に議論されるわけですけれど、それが手芸の核にもなっています。女性が家族のために「奉仕」の義務として行なってきたパッチワーク、襟や裾直し、リメイク、ボタン替えなどの活動に対しても、再生、リハビリテーションというアートの機能にもなり、そしてそれを手段に起業家として成功する人もたくさんといるという経済的なことも考えながら、手芸というものの再評価、それとアートとの重なり合いを指摘しています。
そしてこのような「フェミニストの美術史」という領域の批評や、そこへの介入の仕方、方法論というのは、工芸という、美術の対概念として近年に構築されていった概念への批評に発展していきます。
アートと工芸のヒエラルキーは、性差別を内包する
ロジカ・パーカーの『The Subversive Stitch』(1984) がその分水嶺になります。アートと工芸のヒエラルキーは性差別を内包するということです。そのような政治的な視点を持ち、そこから工芸の問題をさらに「刺繍」と「手芸」ということに焦点を当ててパーカーは議論していきます。刺繍はアートとしては仕分けされません。刺繍は誰でも女性に生まれればできて当然で、それは美術ではなく工芸であるとされます。
アートと工芸の分離はルネッサンス頃に始まって、18世紀には制度的にはっきりと規定されていきます。「絵画は男のプロの職、手芸は無給の女性の愛と女性性の現れ」という風に理解されます。女性が手芸することは自然な家族への奉仕と忍耐のある美徳である、女性は家の中を良い趣味で装飾すること、そこに理想的な女性像が作られていったとジェンダーの問題を指摘しています。絵画にも繰り返し「刺繍する女性」の姿が表象されます。家父長制、特に19世紀の産業革命と資本主義制度を背景にこの女性性の定義が強固になっていきます。これは西洋をモデルに近代化した、明治以降の日本においても同様です。またParkerの功績はSamplerという14C頃からヨーロッパに存在するものに光をあてたことです。刺繍のステッチや模様パターンのサンプルを記録しておく、技術見本のことです。これらがただの見本でないことを発見しました。例えば、エリザベス・パーカーの残した1830年頃のものです。この若い女性はイギリスSussex州の住み込みの女中さんで、雇用主に酷使される毎日の状況に狂うほど怒り、神との対話もし、自殺を思う心情などを刺繍でつづっているのです。そこには寡黙で従順に平安に美しく刺繍し、見る男にとりセクシーな女はいません。そこから、本の題にあるsubversive、美しい針仕事に隠された女性の主体性と破壊力を覗き見ることができるということなのです。
Suffragette 婦人参政権運動家の戦略的手芸
Suffragette(婦人参政権運動家)たちもこれと同じsubversiveなソフトにしかしチクリと刺す戦略を使いました。エミリン・パンクハーストが主導して1928年に全女性に参政権が与えられるまで運動した、婦人参政権取得のための運動ですけれども、過激なこの運動家たちは白と紫と緑の入った手刺繍のアップリケでバナーやリボンにスローガンを縫い、それで政治表明をしたのが現代のアーティストたちのインスピレーションに繋がっています。
フェミニストアーティストの戦略的使用
現代のフェミニストアーティスト達は「美術」から差別されジェンダー化された「工芸」を戦略として逆利用して過激なアバンギャルドな作品を現代アートとして発表します。その装飾的と思われるメディア(布、刺繍、壁紙、絵付け陶器など)を通してsubversiveness(支配体制への破壊力を秘めたもの)を表現し、現代アートの議論へと発展させていきます。(マグダレーナ・アバカアノヴィッチ/ミリアム・シャピロ/ジュディ・シカゴ/トレーシー・エミンなどがその例)
クイア化による二項対立を超えて
そして女性たちが刺繍や手芸を逆手に使って女性性を壊そうとしてきた戦略に可能性を見出したロジカ・パーカーの「The Subversive Stitch」の考え方を土台にしながらも、修正を迫る批評が出てきます。ジョゼフ・マクブリンの『Queering the Subversive Stitch』(2021)です。刺繍と、女性性の構築を考えるならば、その対になっている男性性の構築をも含めて考えなければ、女性性を別種のものと分離して二項対立自体は崩れていかない。なぜ男が刺繍をすると男性性を損なうことになるのか。その背後にある「ストレート」というアイデアを崩して、ゲイやトランスセクシャルの人を含めて考えない限りこの議論は発展せず、男性中心社会の強化をすることになってしまう。理想的な男性性に当てはまらない場合、女々しいとか、変態と呼ばれることを恐れ、それが可視化されずにきたことが多いと批評されています。この本でマクブリンは、「創造的に楽しく手芸や刺繍をしてきた男として生まれてきた人たちは、過去から現代まで沢山いた」と男性が刺繍や手芸をしてきたことを実証し、差別や偏見を解きます。(歴史的に多くいる海軍兵の例や現代の刺繍作家アーネスト・サセジャー/ジェームズ・ノーベリー/ジェイミー・チャルマース/などがその例)
「工芸」という「非美術」を破壊的に用いる、現代アートにおける戦略
次に工芸という非美術をsubversiveに使う現代アーティストもいます。
早いところではデービッド・メダラがあげられると思います。彼はフィリピン系のイギリスのアーティストでゲイでもありました。《A stich in time(間に合うように)》というコラボラティヴな作品は1968年に作られたもので、空港で愛人に刺繍したハンカチを渡す、それが後に別の空港で会ったバックパッカーの愛人の貴重品として発見されるという、愛のギフトの長い旅行の経験を通してゲイの主体性が表わされた参加型の作品で、2017年のベニスビエンナーレでも改めて再評価されています。
そして皆さんご存知のグレイソン・ペリーですね。「陶」という工芸のメディアにおいて初めてファインアートの最高賞・ターナー賞を2003年に受賞してセンセーションを起こした、イギリスのエセックス生まれの陶芸家です。様々な差別的な冗談があるエセックス生まれを自虐し、そして二つのアイデンティティ(「グレイソン」と「クレア」)を持つトランスヴェスタイトです。幼少期の家庭内の虐待などから逃避し、守ってくれた「グレイソン」の男性性を支えるテディーベアの「アラン・ミーズルズ」を守護神にして、ローマ教皇が乗るガラス張りのバイクで、英国の教育で植えつけられたドイツへの敵対感情を個人的に和解するために巡礼の旅をするという作品です。
彼はまた「無名の工人の墓」という展覧会も開催しています。大英博物館の収蔵品の中から美術史に名の残らなかった無名の工人の作品を自分の評価軸で選び再評価するというものですが、バーナード・リーチによって英語にアダプトされた柳宗悦の「無名の工人」の考えも潜む展覧会になっています。その選ばれた歴史的な収蔵品の中に混ぜて展示する自分の作品では評価されてこなかった素材や装飾という概念を強く押し出し、それを使って社会的にショッキングなことやタブーなことを「丹念に美しく装飾する」という戦略的な作品をつくります。現代美術家として陶芸家が直面する問題、現代美術の中で切り離されてしまった概念、特に「技術」とか「職人気質」について非常に考えさせられる展覧会です。またペリーは2004年にBBCのリースレクチャーという名誉ある講演会で「美術と美術でないものの境界は何か」というテーマを、昔の儀式風に鞭で領域を叩きながら話すという非常にユーモアを交えた講演をしています。
Craftivism
次にサラ・コルベットですけれども、英国のリバプールの貧困地域の労働者階級で育ち、大学卒業後ロンドンの「Craftivist Collective」という活動団体を創設した人です。
「Craftivism(クラフティヴィズム)」とは「Craft」と「Activism」を合体させた造語で、ベッツィ・グリアにより2003年につくられました。英語の「Caraft」には複数の意味があり、名詞としての「工芸品」だけではなく、弁護士や役者のスキルも入り、また動詞としては人間が何かを仕掛けて変容する、そのプロセスを含む動的な働きかけの意味も持ちます。そしてメタファーとしては wiitchcraft(魔女のトリック)、アーツ・アンド・クラフツ運動における資本主義と産業化に反対して理想化された中世的なもの、階級制に対する異議申し立て、そして美術ではないジェンダー化された下位領域など意味を重層的に含む言葉になります。緊急で長期戦を必要とする社会的政治的問題、例えば貧困、女性への暴力、人種差別、環境破壊、大量消費などへの意識を共有し、手芸や工芸というソフトな戦略を通して繰り返し、ゆっくりでも粘り強く実践していく運動を提唱しています。
コルベットの考えるアクティヴィズムのモデルというのは、例えばアウグスト・ピノチェトの独裁政権下のチリで失踪したり殺された夫や息子の問題を世界に発信し、残された女性たちの救済活動をした「アルピレラス 」という非常にカラフルなアップリケを作って人権侵害を訴え、それを売ることによって女性の収入にした活動などがあります。そしてその中でも今世界中の都市に波及しているのが、2005年北米のテキサスから始まった The Yarn Boming movement(糸爆弾運動)です。カラフルな毛糸などで人々の注意を引き、政治的ステートメントを表明したり、都市空間を一時的に変える運動です。これらはグラフィティ同様、違法に見えるかもしれませんが、すぐに取り除くことができるので合法的に行うsubversiveな運動となっています。クラフティヴィズムの特徴としてはソーシャルネットワークやデジタルアプリケーションにより連絡網や発信の仕方が迅速で、大都市のモビリティをうまく使って、日常の空間に過去のアヴァンギャルドアート運動のようにブリコラージュの手法を用いながらどんどん広がっているという特徴が見られます。
そして題名の通り「工芸は政治的である」という本が出ました。この編者のD Woodがいう政治的というのは「工芸」についての現代のグローバルな社会問題意識「維持」と「ケア」(自他のケア、地球のケア、将来のためのケアなど)と密接に関連しているということです。 例に上がっているのは、ロヒンギャ難民女性が主体性を表現する「フルトラ」(花をつくる)刺繍プロジェクト、英国のアップサイクルとリサイクルの実践としての倫理的ジュエリープロジェクト、ガンジーの国産綿糸の手紡ぎ運動をモデルにアイルランドの「ドネゴールケーブル」手編みセーターを地元産のウールで倫理的に共同生産するプロジェクト、カナダにおけるBIPOC(Blackーブラック, Indigenousー原住民, and people of colorー非白人)と混血の人種文化アイデンティティーを表現する工芸など、まるでクラフティヴィズムの百貨辞典のようになっていて、世界中の様々な事例が集められています。
工芸とサスティナビリティ
工芸の政治性を考えるということは大きな人類の課題、持続可能性の問題につながっていくと思います。今ポストモダン、ポストコロニアルの視点から人類の文化や社会のサスティナビリティの問題が問われ、工芸もその一部です。伝統工芸の世界に起こっている問題、例えば特殊な技術を持っている職人の高齢化や後継者の不在、伝統的に使われてきた資源の枯渇や道具不足、工程における分業チェーンの欠落、そして工芸市場など経済の問題など、色々なことが繋がっています。持続可能性は今や「日本」という閉じた世界だけではとても考えられないことなので、地球的な規模の考えを工芸の問題にも取り入れなければなりません。
国連のSDGsのアイデアのもとになった女性経済学者ケイト・ラワースの考案したドーナツ経済学(著書『ドーナツ経済学が世界を救う』)はドーナツの食べられる輪の部分に大多数の人が入れること、それが環境、文化、社会のバランスがとれた安全で公正な状態でありサスティナビリティを保てる状態であるとし、そのための経済活動とパラダイム変革の必要性を唱えました。その考え方でいくと、工芸を成り立たせている環境、文化、社会の多様性を考えなくてはならず、素材、道具、工程、環境への影響について、労働や経済効果について、そしてまた感覚的な知的な喜びや生きがいについてなども含めてサスティナビリティの問題として検証されていくことが必須になります。
そのような先進的な例として早くは1996年にロンドンで開催された「Recycling」という展覧会があります。環境や消費という問題に対してただ作る工芸ではなく何を使いどう作る工芸なのかを倫理的な意識を持って創作している作家の実験的な試みが紹介されました。石川県の例もあります。九谷焼の窯元の宮吉製陶さんは工程の見直しを行い、SDGs宣言を出しています。また輪島の千舟堂の岡垣祐吾さんは廃棄される素材を使ってSDGsバッヂを制作したり、利益の一部を漆栽培に回したりと、カーボンネガティブな生産行為をカーボンポジティヴでバランスを取っていくことを実行しています。
横断する情報交換の重要性
このような取り組みに至るには横断した情報の収集と情報交換が非常に重要になってきます。
最近のおもしろい事例をご紹介します。The Creation of Japan(CoJ)という、文化庁に委託されて工芸分野を持続可能なものにするために活動している非営利団体の「クマネズミ」にまつわるプロジェクトです。
「クマネズミの害獣駆除を行なっているプロジェクト」と、「漆の蒔絵に必須であるクマネズミの毛の不足問題」という、前者は環境省で後者は文科省の管轄で行なっているそれぞれ全く関係性のないプロジェクトがありました。片や退治される対象が、一方では絶滅危惧種で希少価値があるということが、CoJの仲介により成立した環境コンサルタントと蒔絵の人間国宝との対話でわかり諸問題が解決されるということがありました。(プロジェクトのオンライン座談会の動画はこちらから)縦割り型・たこつぼ形の仕事をしているとこういうことはできません。「情報交換」と「対話」によって解決の道を模索することができるのだという、とても嬉しい話題の一つでした。
最後になりますが、現在進行形で起こっている様々な問題を共有するためには、こういう情報に色々接していかなければいけないと思います。
例えばグレン・アダムソン他が2008年に立ち上げた『Journal of Modern Craft』という学術雑誌(年三回発行)は様々な方向から問題を拾いグローバルな工芸批評の最前線がわかります。昨年は私も「GO FOR KOGEI」の展覧会評を寄稿しました。それからソーシャルメディアを用いた情報交換があります。「Critical Craft Forum」。北米ポートランドのオレゴンにベースをもつフォーラムですが、毎日のように展覧会情報や様々な工芸に関する政治的争点が次々に上がってきています。それからオーストラリアのメルボルンをベースとする
「Garland magazine」も類似のプラットフォームです。そして手前味噌ですが私と陶芸家の今西泰赳さんが共同で運営している「Kogei-net」があります。英国とオーストラリアの政府の助成を受けて行なっている『社会的革新をデザインするための女性のリーダーシップ:アジア太平洋地域における相互理解』という 国際共同研究プロジェクトの一貫です。
まとめとなりますが、グローバルに繰り広げられる「現代工芸」の批評のその厚みと広い視野を紹介しながら、その争点となっている「美術・工芸」という領域とヒエラルキーの問題、そして素材、技術、工程、用、装飾などの「工芸的要素」の評価の問題に今回触れました。そしてそのような批評の背景の根底に流れるのがポストモダニズム、ポストコロニアリズムにおける脱近代思想であり、そこから出てきているフェミニズムの戦略とその発展であるクィア(性的マイノリティ)の方法論がアートの戦略として使われ、破壊力ある手段としての工芸が用いられることでそれが現代のクラフティヴィズムに繋がっていくことを説明しました。そして工芸をこのように考えることと、実践することが政治的である、ということを示せたかと思います。工芸をこのように批評的に再考することを、私はこれからも実践していきたいと思っています。皆さんにも色々加わっていただけると幸いです。ご静聴ありがとうございました。
(以上講演より)
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菊池裕子さんによるエキサイティングなレクチャーの興奮冷めやらぬうちに、会場からも興味深いイシューを含む質疑が展開され、有意義な意見交換がなされました。その様子も収録されたフル動画はこちらからご覧いただけます。
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